授業の感想「情報社会のユニバーサルデザイン(’19)」
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世の中の考え方には前提があって、ユニバーサルデザインも資本主義の社会という土台の上に生まれたものである。
ユニバーサルデザイン発祥の地アメリカでユニバーサルデザインが受け入れられていった背景には、資本主義という土台とベトナム戦争による傷痍軍人や障害者の増加があり、社会インフラなどに彼らも働けるようコストをかけても得られる利益のほうが多かったから、という理由になにかひんやりとした気持ちになった。
それならば利益の出ないものはどんなに必要だったとしてもないものとされるのではないか? と思わずにはいられなかったからだ。
この世は資本主義であるしアメリカの強さに導かれた考え方の中では、アクセシブルな社会づくりのために市場の機能を利用するのは手法として正しいだろう。反面、多くを数値や価値の基準で捉えることへの危機感も感じるという葛藤があった。
マスマーケット製品に関するユニバーサルデザインを批判するベス・ウィリアムソンの引用が「情報デザイン(’21)」の授業にある。授業で製品のユニバーサルデザインを見たときは確かに必要な考え方であると思った。反面、誰もが使えることで障害や障害のある人の存在を見えにくくする可能性という批判も確かにわかる。こういった「確かにわかる。だがしかし、とはいえ……?」をずっと考えていた。
多様な人々(という言い方もどうなんだろうというのも個人的にはある)が苦労や不快な思いをせずに生きていける社会にしようという考えには間違いなく賛同する。そうであるべきだ。
誰かが困っていてその困りごとを解決することで結果的にめぐりめぐって自分や自分の身近な人にも返ってくる。今自分が困っていないのは、「今現在偶然そうではなかっただけ」だ。
社会という複雑なものに対して、はじめからすべてが解決できる完璧な考え方はなく、今ある問題を今考えられる最善で解決していき、新たな問題が生まれればいろんな人々から話を訊いて改善を続けていくこと、改善を続けられるしくみが重要であろう。
いまの社会のつくりのなかで、我々が生活で行える行動や視点を持つためにとてもよい科目である。よりよい世の中にしていくために必要なものの見方や自分以外のものの見方を学び、自身の限界にもぶちあたり葛藤や反省をすることのできるよい科目である。