プスカ大佐の「ストグラシャッフルパージデー」OP,EDがすごくよかったから語りたい
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ストグラとは「ストリーマーグラセフ」の略称。しょぼすけ氏が主宰する専用のグランド・セフト・オート5のマルチプレイサーバーを利用し、配信者・実況者がロールプレイをしながらマルチプレイをおこなっている。
街には、白市民と呼ばれる労働により生計を立てる人々と、と黒市民と呼ばれる犯罪で生計を立てる人々が暮らしており、この街にやってきた動機も、生活スタイルもさまざまだ。
そのなかで、私は主にBMC(Bear Moon Custom)という整備工場の従業員を中心に、この世界の中で生きている人々を見守っている。
2024年4月1日に「ストグラシャッフルパージデー」というエイプリルフールの企画が行われた。
導入としては、市長がエイプリルフールだということに気がつき自身が持つ特別な力で市民の記憶をぐちゃぐちゃにして1日だけめちゃくちゃな世界にして楽しんじゃおう。というものである。
そして住民が目を覚ますと、観測者(視聴者)たちもまた見慣れない場所に誘われる。自分が普段追っているギャングがこの4月1日だけ公務員である救急隊や警察、はたまた白市民しかなれない職業のメカニックになっていたり、逆に普段白市民である人が黒市民になっていたりと、多くの人が驚きと歓喜に沸いたことだろう。
私は今回まずBMCのメカニックである、プスカ大佐の視点を追っていたのだが、彼の2024年4月1日のはじまりと終わりの美しさに惚れ惚れとしたので、この記事を書きたいと思う。
プスカ大佐はいろいろあって偽名のまま街で暮らしているのだが、メカニック・普通車ディーラー・救急隊を兼ねるまごうことなき白市民である。
4月1日0時、彼は普段通り目を覚ます。見慣れたガレージから車を取り出し、そのまま職場であるBMCに入っていくと思いきや、無言でBMCを眺めた後「ま、いっか」と別の場所へ向かう。ガソリンスタンドに向かうにしても方向が違うし、何かがおかしい。そしてたどり着いた先は……。
語り手を信用して観ている状態から、徐々に「なにか様子がおかしいぞ」という疑いをもたせるスムーズな導入の作りのうまさがすごかった。
この「ま、いっか」は常時であれば「後からでもよい」と受け取れるのだが、言葉のニュアンスがどこか普段とは違い「何かがひっかかる気がするのだが……」という含みのある「ま、いっか」であり、うっすらと影があるのだ。
メタなことをいえば、この世界はゲームであり基本的にTPS(Third-person shooter)視点であり、エモートは存在するがアニメやドラマのようなはっきりと役者の表情が見られたり、身振り手振りといったものは基本的に無いと言える。その中での、言葉の微細なニュアンスで伝えられる音声だけの不穏さに舌を巻いた。
その後の情報開示の仕方もワクワクとハラハラを感じられるグラデーションがあり、まるで「不思議の国のアリス」のうさぎの穴に徐々に落ちていくがごとく「いつもとは別の世界」へとオーディエンス共々移動していく。
そこからの街は、道路や店の中でロケランが飛び交ったり「どうしてかなんだか役割に慣れていないような?気がする」人々のてんやわんやでお祭り騒ぎ。普段の世界との絶妙な差異が、不思議の国ならぬ不思議のロスサントスを作り出す。市長が「記憶をシャッフル」した(という体)故に、きれいに役割が置き換わったわけではない、つまりそれぞれがちゃんと割り振られた仕事をこなせるわけではない、ちぐはぐさが「なにかが違う街」の演出として機能しているのがよかった。
ロールプレイというものが絡んでいる以上本人に「それは違う」と言われてしまえばそれまでなのだが、物語の見かたとしてはいろいろ考えられて、たとえば今回だと「それぞれがイメージしているそれぞれの役割」だとか「気づいていない願望」がこの騒動によって表側に出てきた、と思いながら描かれた物語を見てみると、エモかったりグッとくるものがあったりするかもしれない。この見方で見るとすれば、わたしがめちゃくちゃ気になるのはマクドナルド警察署長だろうか。
この記事の本旨に戻ろう。プスカ大佐の4月1日の終わりにはちょっと泣いてしまった。
4月1日の終わり、その日1日「思い込んでいた」記憶と、普段の記憶が徐々に入り混じり始める。エイプリルフールの終わりが近づいているからだ。観測者たちにも、4月2日に進むためのグラデーションの時間を与えられる。大佐や周りの人々が少しずつ「普段の自分」に戻り始めるのである。夕方のロスサントスが、お祭りの終わりを告げている。
大佐が職場であるBMCに戻ってくると、彼は何かを確認するかのように「いつもの風景」をじっくりと見回す。4月1日0時の「ま、いっか」の不穏さはそこにはない。そして社内無線に入り、いつものセリフ「おはようございます、プスカ起きました」と出勤の挨拶をする。そして、彼も観測者たちも長かったような短かったような「夢」から覚めるのだ。彼の後ろ姿に、安心と同時に、お祭りの終わりの寂しさも感じられる。いくばくかの余韻を残し、配信は終わる。
もし、他に誰かが先に出勤していたとしたら別の終わり方になっていただろう。この終わり方は、考えていたのか即興で構築したものなのかは知る由もないが、偶然が生み出した唯一無二のものであろうし、その偶然の中で行われた素晴らしい演技と演出にとても感動した。
昔のテレビ番組は、オープニングの歌でわくわくし、エンディングの歌でしんみりして終わることが多かった。エンディングが終わると容赦なくテレビCMが流れることで現実をガツンとぶつけられ「夢だったか……」というような気がするのだが、エンディングの寂しさは、子どもたちを夢の世界から現実に戻すための儀式なのだろうと思ったことがある。行ったのだから、いずれは帰らなければいけない。終わりは、それまでのものを畳むものだからどうしたって寂しさや切なさがある。そういう情緒というべきものがエンディングの歌にはあった。
日常生活でさまざまな体験をし、夢の中で整理し、そして成長していくというスパイラルの中に人は生きている。ロスサントスの人々もまた、そういった経験をしたのかもしれない。
彼の4月1日の役割は、「イメージ」「願望」「恐れ」のどれだったのだろうか。もしかすると「記憶」や「憑依」の可能性もある。答えなどないが、物語を楽しむ……いわゆる「考察」として心に留めながら、改めて観測するのも面白いだろう。とても面白く興味深いエイプリルフールの企画だった。感謝。