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『ヴァチカンのエクソシスト』を見た

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ホーリー・ホラーにしては怖くないなどとも言われているようだが、人間の罪の意識や頭の中の妄想、心の乱れがホラー描写として表現されていると思うと、過剰に表現されるよりも現実的でわかりやすく、自分の抱えている不安障害とホラー感がすぐ結びつくような塩梅であった。

表現で言えば、「舞台の上にあるものに無意味なものはない」という基本的なメソッドがきっちり使われており丁寧に見ていくと多くの発見があるし、そういう視点で見なかったとしてもラッセル・クロウ演じるアモルト神父のフィジカルが強い存在感に痺れる映画であった。

「これは現実じゃない。頭の中の妄想だ」

教皇直属の首席エクソシストであるアモルト神父であるが、やっていることは基本的に傾聴的なものである。医者でも心理学者でもないことを理解しており、基本的には医者に見せるよう取り計らうという科学的な態度が現代人としてのエクソシストの描写でありしらけさせない。

案件の当事者の思い込みを解くために悪魔祓い風のことをして納得させることがほとんどなようだが、区別がつかない人間から見れば彼の行っていることはどれも悪魔祓いに見えるというのもまた現実のどうしようもなさがある。

本題に入る前の一連の描写により、彼は人間の心理を理解している者としてインプットされるが、物語を追ううちに刺さったのが「これは現実じゃない。頭の中の妄想だ」というセリフであった。

”本物の悪魔”に取り憑かれたヘンリーと対峙する際、アモルトたちは自分の罪の意識=悪魔が見せてくる幻影に引きずり込まれのであるが、アモルトはこれを「これは現実じゃない。頭の中の妄想だ」と周囲そして自分を喝破する。

彼は悪魔がそういった「罪の意識」につけ込んで侵入してくることを理解しており、事前にトマースに告白をさせるのであるが、トマースもそしてアモルト自身も告白によって神から罪は許されていると頭ではわかっているのにも関わらず、自分の中に抱えているそれら意識がいつまでも自分の心を捉えて離さず、最後に打ち勝つまで罪の意識は妄想として何度も現れ囚われてしまうのである。表現として悪魔は外在するものとして描かれるが、実際は自身の中に存在するものであろう。

この妄想の描写が、自分が抱えている不安障害の発作がひどいときの頭の中と同じで、「マジこれな」と思った。不安は頭の中の妄想だとわかっているのに、それでもやはりそのイメージの塊が自分を不安にする。

彼らが行う罪の告白とその許しというのは、お医者に行って自分の不安を伝えて聞いてもらうだけで少し楽になるのに似ている。それでもまたイメージに囚われ「これは頭の中の妄想だ」と思いながら心を落ち着ける……を繰り返し、突然たち現れる不安と共存している。アモルトとトマースの妄想との戦いや、妄想との取っくみあいは荒唐無稽でもなんでもなく、葛藤をフィジカルで表現するならこうなるよなと納得しかなかった。

妄想は「悪」が誘引する

悪魔憑き案件の98%は精神疾患であるが、2%は科学や医学で解決できない「悪」であるとアモルトは言う。

「悪」とはなんだろうか。この物語ではスペイン異端審問を始めたのは”悪魔に取り憑かれたエクソシスト”であるとする。現実でそれを言われたら「ふざけんな、悪魔じゃなくて人間がやったことだろう」と突き放して言いたくなるだろうが、まさに「人間がやったこと」なのである。

人の罪の意識につけこんで妄想を見せてくるのは悪魔であったが、「悪」は人間が悪意をもってわかっていてやったことと考えてみるのはどうだろう。

悪を根源とし、客観的・メタ視点で状況や状態を見ることがなかった人間が悪に影響され妄想・妄執のために引き起こしたのが、禍々しい異端審問だった、と捉えられるのではないだろうか。

劇中にアモルトは「悪魔は冗談が嫌いだ」と言う。冗談という行為は、自分を客観的に見ていないとできない。要するに、メタ化する視点がないとできないということ。

自分の妄想だけに集中している人、なにかを狂信的に信じている集団にはそのメタ化の視点はない。劇中でもアモルトは言う「悪魔は保身する」と。

冗談は、すぐに妄想に囚われ一点しか見られなくなる人間をメタに引き上げるものであり、悪魔から自分を守るものなのだ。

アモルトとトマースは、その土地に染み込んだ「悪」の意識が誘引する自分を喰らおうとする個人的な悪魔と戦いながら、自分たちの所属する組織が過去に引き起こした悪と、保身した結果生まれた悪魔たちの記憶とも戦っているのだ。

信仰の根っこは理解しきれないが、理解できるものも色々ある

土地に染み込む「悪」というのが日本人的には、なんの違和感もない気がする。「悪」という表現はしないものの、因習・記憶・呪いが染み込んだ土地、なんていうのはよく扱われるモチーフで結局それは人間の行ったことである。「あそこはああいう土地だから、行ったら狂っちゃうよ」っていわれたら「あーね」となる。何故か。

人間が集団で存在しそこで行われたことが「土地の記憶」として残る、という感覚に違和感がないから、アメリカから金策のために教会改修に来た家族が「土地の記憶」となんとなく違和感がある雰囲気の建物の中で生活することにより、自分の心の隙に漬け込まれ悪魔に取り憑かれてしまう、といえば「あーね」である。不思議なもので。

そういった超常的な現象にたいして違和感がなく、エクソシストモチーフの映画は人気があり、ラッセル・クロウがヴェスパに乗って悪魔祓いの現場にやってくるのだから、人気が出たのにはとても納得がいく。

しかも、悪魔との戦い方が子供の頃に見たアニメのようなのだ。アモルトとトマースが悪魔と退治するための武器は、基本的には「祈り」だ。これがファンタジーを見て育った人間には、魔法の詠唱と魔法に見えるし、魔法少女モノを見て育った人間には必殺技に見えるのである。最後の方は、サイリウムを振りながら「がんばれええええ」と言いたい気持ちでいっぱいだった。

ヨハンナ・シュピリの『ハイジ』を読んだときも思ったのだけど、キリスト教と接点のない私には到底理解し得ない「信仰の力」というものが存在するんだな、と思う。祈り、神を信じることで守れる自分の心があるというのは、機能としてすごいのではないかと思う。ただし、機能や道具としての信仰は映画内でも描かれているようにひっくり返れば妄信的な「悪魔」となるのである。