薄暮のなか燃えあがる生命の炎 『斜陽』
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没落貴族の滅びの物語、と国語便覧や時折見かける紹介で聞き及んでいたが、実際に読んでみると死や滅亡よりもずっと「生」を感じる作品であった。
物語は主人公のかず子の目線で進んでいくが、時折文脈からは理解しきれないぽつりと差し込まれる一言が、不穏さ、というか彼女がただの没落貴族のお嬢様ではないことを予感させる。冒頭の無邪気にも思える母娘の暮らしは、可憐な少女たちが暖かな昼の光の中でひらひらと舞うようであるのだが、物語が進むに連れ、かず子からはじわじわと「女」が立ち現れてくる。
その「女」は旧来的な価値観を打ち破り、新時代を生きていこうとする、新しい女・母の姿である。わたしはこの物語を、「母と秘密、そして新生の物語」であると思って読んだ。
直治の「ほんもの」と「正しさ」の話も書きたいが、まずはかず子を中心とした母・女についての感想を書きたいと思う。
「母」の物語
息子から「ほんものの貴族」と評されるお母さまは、娘息子を包み込む慈愛に満ちた母だ。彼女は最後まで「ほんものの貴族」として生き、ピエタのマリヤのような顔で貴族のままで死んでいく。
旧来的な価値観で「正しい」女・母の立場がお母さまであるとしたら、対照的にその正しさに反逆する母になるのが、かず子である。
かず子は貴族として死ななかった。しかし、かず子は物語の中で象徴的に数回死んでは生き返り、貴族の娘の姿からしだいに変化した結果、お母さまや直治のような実際の死を迎えなかったのだと考えてもよいだろう。この死を、作中に現れる蛇と結びつけ脱皮と言い換えてもいい。(そういえば蛇の話も書きたかったがこれもまたいずれ。)
第一の死は、離婚し実家に戻って死産し娘の立場に戻ったときだろう。これは妻と母という自分を失い、娘として生き返っている。物語のスタート時には実家に戻っているので、状態を「娘」にロールバックさせてのスタートとなる。
つぎに、東京の西片町の生家を失い、伊豆の山荘に致し方なく引っ越し田舎で新生活をはじめるところ。新天地で日を追うごとに弱っていく母を助ける娘……傷を負い母に守られていた娘という状態から、世間と付き合い、地下足袋で畑の土を踏みしめ、ヨイトマケで稼いでいくことを厭わないと豪語する(まだ不安定ながら)自立した娘に脱皮している。個人的には地を踏みしめるその様に地母神やペルセポネの姿を重ねた。
そして母の死のあと。このときは「正しい母」の呪縛から開放され、娘の役割が終わり、完全にひとりの女へと変化する。
その後は、上京して上原に会い、最初のキスから手紙のときまでの恋が終わり、結ばれて恋が蘇ったときだ。このときかず子は上原をマイチャイルドと呼び、身体には新たな生命を宿し、お母さまとは違う新たなかたちの「母」となっている。
この母・かず子からは、すさまじい生命力を感じた。薄暮のなかひとつ真っ赤に燃えあがる生命の炎のようだと思った。
読み終わってみると、物語の終わりには自ら望み新たな生命を宿した女が佇んでおり、単なる没落の物語ではない。彼女の立ち姿にはおそれすら感じる。
秘密の物語
かず子も、弟の直治も秘密を抱えていた。直治の秘密は遺書に書き残され、姉のかず子に引き渡すことで自身の身体から秘密を開放し死んでいく。
でも、僕は、その秘密を、絶対秘密のまま、とうとうこの世で誰にも打ち明けず、胸の奥に蔵して死んだならば、僕のからだが火葬にされても、胸の裏だけが生臭く焼け残るような気がして、不安でたまらないので、姉さんにだけ、遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいにして教えて置きます。
この「生臭く焼け残る」このフレーズから想起されるのが、物語のはじめにかず子が庭で焼いた蛇の卵である。蛇の卵は結局焼かれなかった。いくら火力を強くし長く焼いてもちっとも焼けなかったのであるが。
火は聖なる力の象徴だったりする。浄化を司ったり、供物は火で焼かれその煙が神に捧げられたりもする。しかし蛇の卵にはその力が及ばず、それは致し方なく土に埋められた。わたしはあの卵は「秘密」を表すものだったのではないかと思っている。
作中、キリスト教の引用がいくつも見られることから、土に埋めるということは、復活が可能。すなわち「秘密の卵」はいったん眠りについたものの、時が来れば復活するということなのではないかと思った。
直治は秘密の卵を姉に託したが、かず子自身は、自身の秘密を自らの力で解き放ち自らの生き方を決めていく。これもまた復活あるいは新生なのではないだろうか。