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「昔はちゃんとしていた」は果たして本当か『日本人のしつけは衰退したか』

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よくある「昔はちゃんとしていた」が良い記憶のみが残ったノスタルジーでしかないことを過去の文献やデータをたどりながら、そんなこたあねえよと明らかにしていく。当然のことながら「最近の若者は云々」「最近の親は云々」は主観であって客観的な話ではないのだ。

1920年代の都市部ではそもそも「家庭」という存在、なんだった親子という関係すら脆弱であり、形をなしていなかったという。貧困や、不良な生活環境ではそれらは維持できないということだ。

ここを見ると、福祉そして賃金の重要さがわかる。そもそも食えなければ家庭というものは存在できないのだ。

他方田舎では、共同体の中で子供は育てられるが、それは正規のメンバーにのみ与えられた権利でありそれ以外は酷使され、共同体の中で育てられた子供も、その共同体のローカルルールで育てられており、奉公に出たりなどして村から一歩外に出ると、なんのしつけもなっていない子供という存在であったらしい。

社会構造が変化すると、素朴な「放っておいても子供は育つ」という考えや地域共同体の因習が絡む「しつけ」からは離れ、家族単位の親主導による教育となる。しだいに過熱する家庭教育に対し「子供に手をかけすぎてはいけない」と言ったところでやめられない理由がある。

学歴重視社会において徹底せざるを得ない子供の教育管理、世間のやっかみによるありもしない「昔はしっかりしていた」という声、保守派が主張する「家庭での心の教育不足」。これらの状態や声を一身に受け止めるのが家庭であるからだ。青少年犯罪が起こるたび「家庭のしつけ」の衰退が問題視されるが、しつけへ無関心どころか関心はむしろ増しており、現代になればなるほど、親個人が子供のしつけ・教育に全責任を負う状況になっているという。

これは要するに「子供のしでかしたことは親の責任」という自己責任論の一端であろうし、失敗することのできない「完璧な親」による「完璧な子供」を求められる逃げ場のない家族という人間関係となっているのが社会が現代であるという。これが1999年に書かれたお話。

今頃になって、少子化問題に慌てて取り組むような状態であるが、これらの家庭の状況を思うと、誰が子供を育てたいなどと思うだろうか。まずは憶測や思い込み、イメージで物事を語らないという人間の育成からが必要なのでは? と思うに至る。

書籍リンク

『日本人のしつけは衰退したか』(広田 照幸):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部